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日本の力のベクトルは 

 経済力…競争力…軍事力…交渉力…文化力…教養力…
 国家に求められる「力」には様々なベクトルがある。日本は果たして、他の国からどういう国だと思われているのだろう、何を求められているのだろう。
 金をたくさん持っている、というだけでは、自分はその人とは友達にはなれない。喧嘩が強いだけ、な奴などまっぴらだ。
 けれど、面白い本や映画やマンガや音楽を教えてくれる人とは、自分は友達になれるかも知れない。
 きっと国家にも同じことが当てはまると思う。

-----Zoom In Zoom Out-----

■文藝春秋 2007年 12月号 [雑誌]
↑「教養立国ニッポン」(藤原正彦)

京都国際マンガミュージアム
漫画からMANGAへ

「鳥獣戯画がやってきた」
サントリー美術館(六本木ミッドタウン)
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[ 2007/11/19 23:40 ] TB(0) | CM(1)

人類最高の発明品 

 石油の高騰が続いている。アメリカのサブプライムローン問題に端を発した、世界的金融不安から、大量のマネーが石油先物取引市場に影響を与えているという。
 「ナルホド、経済ってそうなってるんだ!」などと、日経新聞を読みはじめた若者みたいに感心している場合ではない。誰かが家のローンを払えないことと、誰かの食パンの値上がりが繋がっている。貧しい者のはるか頭上で大量の何かが取引され、僅かな者だけが得をしている。こういう仕組みは「どこかがおかしい」、そう思わなければいけないのではないか。

 石油を売る者は、自分の土地を掘るだけで大量のマネーを手にする。
 石油を買う者は、その値動きを元に、実体の無い何かを右から左に動かすだけで、やはり大量のマネーを手に入れるらしい。
 いわゆるマネー経済(仮想経済)が、実物経済の何倍もの力を持っている。世界の金の流れは、1980年頃までは実物経済にほとんど依っていたが、今やその9割以上はマネー経済によるものだ。
 マネー経済は、それはそれで人類の発展に貢献しているのは確かだし、否定しない。けれどその華々しい貢献の裏側に、どうにもしようのない暗黒面が広がっていることもまた確かだ。石油売買のその最末端では、あらゆる物価が上がり続けているし、そこはまた、あらゆる環境破壊の起点でもある。
 
 ある本に「『株式会社』の仕組みは人類最高の発明品」と書いてあり、思わず脱力してしまった記憶がある。まあそれなりに役に立つ発明品には違いないが、「人類最高」とはあまりに言い過ぎである。笑ってしまう。
 むしろ、今はそれしかないので仕方なく皆が使っているが、もっといい仕組みが発明されるべきもの、そういうものに過ぎないのではないだろうか。

 環境に良いとされるバイオ燃料の、その原料を育てるために、広大な森林が破壊されている。
 温室効果ガス削減の枠組み作りでは、京都プロトコルを離脱したはずのアメリカが口を出しはじめた。
 バイオ燃料も、炭酸ガス排出権取り引きの仕組みも、安直に素晴らしさだけが謳われ、そして特定の誰かだけが得をするのだろうか。
 石油(とアメリカ)を中心に回り続ける(というか回り続けざるを得ない)世界、ライフスタイル、マネー経済、そして地球環境への中途半端な配慮…。

 ゴア元副大統領の「不都合な真実」は、少々強引な結論が多いが(その意味でもこの本は決して科学論文ではなく、上手く書かれた随筆である)、この本や彼が受賞したノーベル平和賞が、少なくとも特定の人間だけが得をするための発明品ではないことを祈りたい。

-----Zoom In Zoom Out-----

■「現代思想」 2007年10月号 特集=温暖化の真実
「環境について、本当に考えるべきこと」(養老孟司, pp.46-58)

■「プロパガンダ教本」
(成甲書房)
エドワード バーネイズ
”広告の教科書”とも言われる名著。面白い。

■「ノーベル賞受賞者にきく 子どものなぜ?なに?」
(主婦の友社)
「どうして貧しい人とお金持ちの人がいるの?」
(回答者:ダニエル・マクファーデン(ノーベル経済学賞), pp.54-67)
[ 2007/11/15 20:30 ] TB(0) | CM(1)

偽装 ― コンシャスとアンコンシャスのすき間 

 人が好き嫌いを判断したり何かを選択するのに要する時間はそれほど長くないらしい。
 たくさんの種類のペットボトル飲料から「これだ」と選ぶ時も、人はそれほど時間をかけずに取捨選択を行なう。
 筆者が先程コンビニで購入したのは「茶織(さおり)」という緑茶。お茶を買うことは最初から決めていたとして、今日はなぜ「伊右衛門」でも「生茶」でもなくコレだったのか。自分がなぜコレを手に取り購入まで至ったのか、購入した後に改めてしみじみ考えてみるのも面白い。
 パッケージの色や名前や字体、以前飲んだ時の味や今朝見たCM、多様なペットボトルの形(以前はどれもほとんど同じだったけれど最近急速に個別化が進んでいる)…これらのデザインと記憶を参照しながら、それはもう「ものすごい速さ」で比較検討がなされ判断が下されている筈だ。
 しかしその高速の比較検討の過程を我々が意識することは少ないのではないだろうか。少なくともまずはじめに「パッ」と手に取るその時までは、我々は完全には意識的な状態ではなく、意識的と無意識的の中間位の状態にいることが多いと思う。
 そのためか、例えばそのお茶の原料が「中嶋農法」という方法で栽培されたことなどこまごまとしたこと(そして購入理由として実はあまり本質的ではないこと)は、購入後、あるいは実際に飲みながら、しみじみとパッケージを眺めて初めて気が付くことも多い。
 おそらく、どのペットボトル飲料を選ぶかといった「どれでも大して変わらない」買い物をする作業は、ある程度アンコンシャスなプロセスなのだろう。

 普段は何気なく眺めている商品の群れを、もう少しだけ意識レベルを上げて眺めてみると、売り場をひと回りするだけでもいろいろな発見があって面白い。
 消費者の目を留め手を伸ばし買ってもらうために、よく考えられた商品は細部にわたり綿密にパッケージングが施され、消費者へ向けて懸命にアピールをしていることに気が付くだろう。
 
 しかしここで重要なのは、我々はアンコンシャスに商品を選ぶ場合がある一方で、逆に非常にコンシャスに商品を選別する場合も少なからずあるということだ。
 我々はアンコンシャスな状態とコンシャスな状態を行き来しながら買い物をする。しかもその意識レベルは、「わりとアンコンシャス」か「非常にコンシャス」かのどちらかにはっきりと二分できるかも知れない。
 ペットボトルの緑茶はわりと適当に選んだ人が、その直前に弁当を選ぶ時には(その中身やカロリー、おかずの好き嫌いなどを比べながら)かなり時間をかけて厳選することは充分あり得るのだ。
 
 食品の場合、中身は購入後に消費されるのが普通だし、しょっちゅう試食ができるわけでもない。だからこそ消費者は「パッケージング=顔」を見て選ぶしかなく、だからこそその「顔」を偽ることは許されないのだ。
 食品の「ブランド」とはアンコンシャスなレベルで我々に《信頼感》を与えるものであるし、つい最近まで「中国製品」はアンコンシャスなレベルで《安価》をアピールできれば充分だった。これまではとりあえずそれだけで、消費者は手に取り、少なくとも選択の俎上にのせてもらうことができた。けれどひとたびその「顔」と「中身」をコンシャスなレベルで吟味し始めてみると、次から次へと《嘘》や《毒》があふれてきた、というのが昨今の状況だ。
 偽装(擬装)とは、我々が物を選ぶ時のコンシャスな状態とアンコンシャスな状態の間に隙あらば潜り込もうとする、悪質かつ捕らえ難い誤ちに他ならない。

-----Zoom In Zoom Out-----

一目ぼれに必要なのは0.5秒=米研究

■「サブリミナル・マインド―潜在的人間観のゆくえ
下條 信輔
中央公論社

■現代思想 2007年11月号 特集=偽装の時代

世界初の顔面移植手術を受けた女性、1年半ぶりに心境を語る
自分の「顔」が全く別人のものになってしまった時、その人は何を思うのだろうか
[ 2007/11/08 22:26 ] TB(0) | CM(0)

ヒトの歌、鳥の歌、ことば 

 CDショップに並ぶCDはほとんどの場合「ポップス」「ロック」「ダンス」「テクノ」など、その音楽のジャンルに分けて陳列してある。
 音楽とは音の連続である。音とはある周波数帯における振動の時間軸にそった変化である。われわれは目で見えるわけでもないこのさまざまないわば波の連続体を、「これは『ロック』」「これは『ダンス』」「これは『クラシック』」と分別することができる。いろんな音を聞くにつれ、そのパターン認識の精度も上がる。それが進めば同じ「ロック」の中でも、さらにそれを細分化することもある。つまり音楽のジャンル分けとは、音に対して人間がパターン認識をおこない、その音の世界をあるやり方で構造化した結果を体現したものだ。
 
 われわれ人間にとって重要なもう一つの音が音声言語である。音声言語に対するパターン認識のチューニングは、幼い頃にある程度なされてしまうらしい。ある音をどういう音としてとらえるか、例えば英米人が聞き分けるLとRの音の違いに対してチューニングされていない日本人は、それを同じ音としてとらえてしまう。逆に日本人が日常認識している単語中の「っ」(撥音)をなかなか外国人が認識できないこともあるという。音の世界に対する構造化の仕方は、その人の母語によって異なってしまうのだ。
 
 このような、音に対する人間の認識能力は、鳥が親鳥の声を聞き分けたり、鳥の鳴き声にも方言があることなどと繋がりがある。鳥のその小さな脳には音声情報に対する高度な処理能力が認められはじめていて、盛んに研究が進められている。鳥の脳の研究を通じて、ヒトが音を「きく」という過程がさらに解明されていけば、音楽や言葉の持つ力、その豊かな世界がさらに大きく広がるに違いない。

-----Zoom In Zoom Out-----

■「意識」とは何だろうか―脳の来歴、知覚の錯誤
下條 信輔
講談社

■寝ながら学べる構造主義
(文春新書)
内田 樹

■「グレープフルーツ・ジュース」
オノ ヨーコ、南風 椎 他
講談社
[ 2007/11/01 00:14 ] TB(0) | CM(0)
プロフィール

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■このブログについて:
 「科学と芸術、そして人間。」をテーマに、さまざまなものごとについて考えるブログです。特定の領域というよりも、領域と領域どうしの境界面のそのたたずまいに焦点を当て、張り過ぎず緩め過ぎず可能な限りバランスのとれた考察を深めることをめざしています。

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◆管理者プロフィール:
 1976年生まれ。東京都在住。自称、逍遙学派。歩きながら考えることで何かが見えてこないかと、今日も歩きながら考えている。このブログも文章のほとんどを、歩きながら携帯電話にて入力し、推敲を重ねている。

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