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パズルゲームとエントロピー 

 パズルゲームには少なくとも次の2種類が存在する。

 (1)エントロピーが大きい状態から減少させていく系
 (2)エントロピーが小さい状態から増大させていく系

 「ルービックキューブ」は(1)に当てはまり、「ジェンガ」は(2)に当てはまる。
 多くの場合(2)は商品出荷時の状態そのまま、もしくはほぼそれに近い状態から始めることができるが、(1)は商品出荷時の状態を一旦崩し、エントロピーをわざと大きくしてから始める必要がある。
 (2)では、エントロピーが急激に増大する局面(ジェンガを崩してしまう、など)が存在し、運悪くそれに携わってしまった者が「負け」となる。

-----Zoom In Zoom Out-----

無印良品の「モノクロ・ルービック・キューブ」

■一人ジェンガ
矢井田瞳

(2008/01/23 加筆修正)
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[ 2008/01/15 21:11 ] TB(0) | CM(1)

ラジオをつけて思うこと 

 ラジオをつける時いつも意識してしまうことがある。ラジオから聞こえてくる音楽や話声は、ラジオをつける前から電波という目に見えない姿ですぐそばにいた、という事実である。その時に聞こえる音楽や話声以外にも(つまり選択した周波数以外にも)、たくさんのラジオ局の音が電波となって、屋外に居ようが屋内に居ようが、我々につねに降りそそいでいる(この表現の是非はともかくとして)。
 言わずもがなのことではあるが、我々に日夜降りそそいでいるのは、ラジオの電波だけではない。今や現代人のほとんどがパーソナルな電波の検出器(そしてそれは発振器でもある)を携帯している。その検出器を使えば、他の誰でもないまさに自分のために発振された電波を受け取ることができる。多様な電波が飛び交う言わば「荒波」の中から、自分の必要なものを選び取ることが、随分簡単にできるようになった。

 この世に存在する様々な周波数を持ったもののうち、人間が「光」や「音」として感知できる範囲は非常に限られている。逆に考えれば、人間が感知できない波は(健康を脅かすなどその使用に注意が必要なものも含め)人間に感知されないがゆえに便利に使うことが可能だ。感知できないものの中から一部を取り出して感知できるようにする技術が、ラジオの選局を可能にし、携帯電話のパーソナル性・セキュリティが確保される。「不可能が生み出す可能性」とでも呼ぼうか。
 けれどもこのような技術の恩恵にあずかれるのは、それら感知できないものを発見し、そしてまたそれらを制御する術を磨いてきた数限りない偉人たちのおかげだ。科学技術の歴史は、見えない・聞こえない、けれどそこにある、そういうものの探索と解析と制御の歴史といってもよいかも知れない。

 検出しようと思ってもなかなか検出が難しいものの一つにニュートリノがある。ニュートリノは毎秒100兆個程度も我々の体に降りそそいでいるにもかかわらず、あまりにも小さいためにそれらほとんどすべてが「すり抜けて」しまう。スーパーカミオカンデのようなニュートリノ検出装置は、地中深くに埋め込まれ、そこにはほとんどニュートリノしか辿り着けないようにしてある。そこに大量の水(水なら比較的安価に純粋なものを大量に集められる)を用意することで、ニュートリノが「ぶつかる」確率を高くしている。
 現代物理学は何かを見つけるために、莫大の資金が投入された巨大な装置が必要だ。対象が小さくなればなるほど、検出に必要な装置はどんどん大きくなる。

 ここ数年のうちに見つかるかも知れない「見えない」ものの一つが「余剰次元」だ。余剰次元とは、つまり5次元以上の次元を指す。
 見えなかったものが見えるようになったり、見えると思っていたものが見つからなかったり、そうした歴史を繰り返しながら、人間はこれからも新たな「探し物」を見つけるのだろう。
 人間の「見える化」の歴史はまだまだ終わりが見えそうにない。

-----Zoom In Zoom Out-----

NHK「アインシュタインの眼」
NHKの可視化技術の真骨頂

「見えないコミュニケーション」展
2007年1月14日まで
(NTTインターコミュニケーション・センター)

■「ワープする宇宙―5次元時空の謎を解く」
リサ・ランドール

(2008/01/23 加筆修正)
[ 2008/01/08 00:22 ] TB(0) | CM(0)

顔を読む 

 人間の顔と表情に関する最近のニュースをきっかけとするひとつづきの考察…

■「顔を読む」こと=生存に必須?
 産総研の杉田陽一研究グループの発表によると、人間や猿が相手の顔を見る際には、他の物を見るときとは違う脳神経回路が働いており、その能力は成長のある時期にチューニング(ヒトの表情を読みとれるようになるか、それとも猿の表情を読み取れるようになるか)されることが分かった。赤ちゃんにとって表情を読み取ることは、親の保護を受けて生きる上で極めて重要だと考えられるという。
(文章の一部をhttp://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=0050-jij-sociより引用)

■「顔を読む」技術
 2007年に流行った技術の一つが「顔認識」だろう。今やデジカメは自動で人間の顔にピントを合わせてくれるし、プリンターは顔がきれいに出力されるよう色調補正してくれる。顔が「笑った」瞬間にシャッターが切れるようなカメラまで出来上がった。

■表情の「読み合い」
 相手が笑っているのか怒っているのか、表情から感情を読み取る作業は子どもだけでなくわれわれが社会生活を営む上で大切だ。
 直接会うよりも電話やメールのほうが相手の表情が分からない分だけ意見を述べ易いといったようなことも起こる。元来気の小さな筆者もやはりそうだ。けれど相手も同じように容赦無く自論を展開し、話が纏まらないことも多い。結局会って話したほうが話がすんなりすすみ、自分も納得感が高かったりもする。ここにも相手の顔を読む生物的本能が大きく関係しているに違いない。
 顔を読む能力は会議など多人数を相手にする場合も威力を発揮する。いつも口うるさい人がいつものようにブスッとしている時と、逆に機嫌が良さそうな時とでは、こっちの話の運び方も当然変わってくる。会議とはライブなのだ。
 最近はスカイプなどのテレビ会議システムも発達し、遠隔地どうしの会議もやりやすくなった。けれど相手の一人ひとりの表情がよく見えない場合があり、まだまだ改善の余地がありそうだ。ひょっとすると例えばオリンパスが研究中のこういうシステムにヒントがあるかも知れない。
 
■表情の芸術
 感情の表現について極限まで突き詰めた結果、日本では生身の人間の表情を消し去るためにシテ(=主演者)がいつも仮面を付けて舞う「能」のような芸術も生まれた。能の場合、ひとつの面を付けたまま、光のあたり具合などを変えることでよろこび(テラス)やかなしみ(クモル)を表現する。
 一般的な女人の面はかすかに笑っているように見える。どことなく薄気味悪さを感じなくもない。けれどひとたび役者に付けられ、舞いがはじまると、面は場面場面で様々な違った感情を表現するようになる。能面はたとえに使われるような無表情では決してない。実に絶妙で、豊かな表情を持っている。

■「日本人の微笑」
 日本人の表情についての有名な論考の一つに、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)による『日本人の微笑』がある。彼は、ともすれば西欧人が侮蔑的な「にやけ顔」と間違えてしまう日本人(ここで論じられる日本人とはわれわれ現代日本人のことではない)の「ほほえみ」について、こう語っている。

――(西欧化が急速にすすんでしまった後の)日本はこれから多くのものを見て驚くだろうが、同時に残念に思うことも多かろう。おそらくそのなかで、日本が最も驚くのは古い神々の顔であろう。なぜなら、その微笑はかつては自分の微笑だったのだから――

 そう言えば能面に限らず、日本古来の神仏の表情もまた他に例を見ない独特なほほえみをたたえている。笑っているように見えるその顔は、時として厳しく見えたり、かなしく見えたりもするように思う。同じ仏教圏でも他のアジアの国の仏像の顔にどことなく「違う」ものを感じるのは、日本古来の微妙な表情の神仏像に慣れているせいだろうか。
 自己主張を抑え忍耐をよしとしていた昔の日本人のほうが、もしかしたらこうした表情の機微にはさらに敏感だったとも考えれる(何しろ表情を読み取るためには成長過程でのチューニングが必要だから)。顔の芸術の発達には、表情に対する繊細な感受性が不可欠だろう。
 果たしてわれわれ現代日本人は、ハーンが予言したように、かつての日本の「表情の文化」を失いつつあるのだろうか。
 けれど、ひょっとすると「顔の文化」は、「顔の技術」へのこだわりという別の形でこれからも受け継がれていくのかも知れない。
 
-----Zoom In Zoom Out-----

無印良品
無印良品は、現代においてハッキリとした「顔」「表情」を持たないことで(日本で、そして世界で)成功した、数少ない例の一つかも知れない。

女面
その幽玄なたたずまい
(the能.com 「能面事典」)
[ 2008/01/06 22:15 ] TB(1) | CM(0)

ポーの『ユリイカ』とヴァレリーの『ポーの『ユリイカ』について』について 

――それでは、ただちに、空の空なる言葉、「無限(インフィニティ)」から始めましょう。この言葉は、「神」とか「霊」とか、その他いかなる国語にも同意味の言葉が存在する諸表現と同じく、けっして一つの観念の表現ではなくて、観念へのある努力の表現なのであります。
  エドガー・アラン・ポー 『ユリイカ』

――法則は世界をもはや支配しているのではなく、人間の精神の弱点と似たものとなっており、わたしたちはかつてのようにその簡潔さに信頼を寄せられなくなっている。執拗なとげのように、割り切れない小数がいつも残って、わたしたちは不安と不徹底感を抱かせられるのだ。
  ポール・ヴァレリー 『ポーの『ユリイカ』について』

 宇宙の果てやそのはじまり、そもそも宇宙の全体とは何物か。ある時は神話という手法で、またある時は科学という手法で、これまで多くの人間が思いをめぐらせてきた。
 「私」が宇宙の全体について考えるということは、とりもなおさず宇宙の一部がまさに今その全体について思考しているということである。
 マクロからミクロまで、果てしない大きさと果てしない小ささに挟まれた、そして、果てしない過去と果てしない未来に挟まれた、それでいて時空の中に確かにある大きさを占めている「私」という存在がここに有る。
 こういったことをあれこれ考える「私の中心」はこの「私」のどこにあるのだろうか?「私」の外部と内部の境界面には何が漂っているのか?
 無について、無限について、想像力について、意味について、目的について、時間と空間について、科学と人間について。
 アインシュタイン前と後に書かれた(そしてまたアインシュタイン前後によってその価値が変わることはなかっただろう)このふたつの試論を、到達点とし、そして出発点としたい。

-----Zoom In Zoom Out-----

■「ヴァレリー・セレクション (上)」
平凡社ライブラリー (528)
東 宏治、松田 浩則 他

■EAMES FILMS:チャールズ&レイ・イームズの映像世界
チャールズ&レイ・イームズ

■「銀河鉄道の夜」
少年少女日本文学館 (10)
宮沢 賢治
[ 2008/01/04 23:36 ] TB(0) | CM(1)
プロフィール

studio:lamplight


■このブログについて:
 「科学と芸術、そして人間。」をテーマに、さまざまなものごとについて考えるブログです。特定の領域というよりも、領域と領域どうしの境界面のそのたたずまいに焦点を当て、張り過ぎず緩め過ぎず可能な限りバランスのとれた考察を深めることをめざしています。

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 悪意のあるものを除き、基本的にオープンです。異論反論、叱咤激励をどうぞお願いいたします。

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◆管理者プロフィール:
 1976年生まれ。東京都在住。自称、逍遙学派。歩きながら考えることで何かが見えてこないかと、今日も歩きながら考えている。このブログも文章のほとんどを、歩きながら携帯電話にて入力し、推敲を重ねている。

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