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MADE IN CHINA 

 最近の我々は、まず、それが中国製品であるかどうかを調べる。中国製品ではないと分かると、ホッとする。その瞬間、何らかの安全はたしかに確保できるかも知れない。けれども、人間として何か大きなものを失っているようなそんな気がする。
 食の安全、農薬、BSE、遺伝子組換え、捕鯨、CO2排出、石油…安全やモラルに対する「責任」を、国家という何かしらの集合体が負わなければならないとすると、今やあちらこちらで頻発している各々の係争はその責任の「押しつけ合い」である。それはさながら、新しいタイプの国家間の経済戦争だ。果たしてこの戦争に勝った国家は何を得られるのだろうか。負けた国家はどうなってしまうのだろうか。
 中国では貧しい労働者が低賃金で集められ、重労働を強いられながらも、日々安価なモノを製造している。富める国の人間は、安い安いと喜びながら昨日までは飛びついていた筈なのに、今日は手のひらを返したように批判のまなざしを向ける。「だから、やっぱり『MADE IN CHINA』はダメなんだ」と。明日からはきっと、貧しい労働者たちは、生きる術をまた1から考えなくてはならないだろう。富める国の人間が「作って」と言うからそれを作ったのに、ある日突然、そんなものは要らない、もう作るな、と言われてしまうのだ。
 様々な状況や原因、確かにそれぞれに至らない点はあるだろう。けれど、ここではものごとを本当に単純に考えてみよう。それぞれの国家に属する1人ひとりの人間として、果たしてそんなに簡単に、相手に責任を押し付けてもいいのだろうか。日々偽装のニュースにあふれる国の人間が、よその国のふるまいを、そんなに簡単に笑ってはならない。
 何かの「衝突」が起きた場合、常にそこには、声をあげることもなく潰されてしまう、立場の弱い者の存在がある。それは国と国との衝突でも、漁船と軍艦の衝突でも、同じことだ。それを忘れてはならない。

-----Zoom In Zoom Out-----

■asahi.com
「中国側の批判、警察庁長官が強い不快感 ギョーザ事件」

■「A Year Without "Made in China"」
: One Family's True Life Adventure in the Global Economy
Sara Bongiorni
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[ 2008/02/29 22:43 ] TB(0) | CM(0)

ヤワラカなタコツボ 

 いわゆる「学際的」な試みというものは、細分化が進む知の領域におびただしく広がるタコツボとタコツボの間に、さらに新たなタコツボを作るだけではないのだろうか。その試みによって小さなタコツボどうしがまとめあげられ、細分化された知が「統合される」といったことにはなかなかなりにくいだろう。むしろ人間は、そこでまた深堀りすべき領域を新たに発見してしまう。
 しかしそれはそれでよい。すべての分野を俯瞰する「綜合的なアプローチ」をお題目として謳えば謳うほど、逆に必ず内在するであろう偏りや視野狭窄を、分かりにくくしてしまう。表面的な上澄みばかりを少しずつ集めてかき混ぜたとしても、そこには「綜合」は無い。ならば最初からタコツボをもう一つ増やすつもりで始めればよいのである。
 タコツボとはひとつの比喩に過ぎない。タコツボはタコツボでも「知のタコツボ」は時間的空間的にあらゆる他のタコツボとネットワークを張ることのできるタコツボだ。その認識さえあればよい。
 タコツボをいかにヤワラカクすることができるか。それこそが重要なのだ。(ここでそのタコツボを行き来する「タコ」がヤワラカイのは、当然の前提である)
 そもそも「全方位的な視点」など有り得るのだろうか。そんな理想状態は想定しなくともよい。或るひとつの深い視座からしっかりと宇宙を見据え、しかし同時にあらゆる他のタコツボと繋がる、問題はその覚悟がそのタコツボにあるかどうかにかかっている。

-----Zoom In Zoom Out-----

「やわらか戦車」
公式サイト

■「問題は「タコつぼ」ではなく「タコ」だった!? 「自分経営」入門」
友成 真一

■「やわらか脳―茂木健一郎「クオリア日記」」
茂木 健一郎
[ 2008/02/13 22:40 ] TB(0) | CM(0)

ものを生み出すという孤独 

 ものごとを「進める」には大勢の力が必要だ。けれど、ものごとを「生み出す」のは、いつも必ず、たった「1人」なのではないか?
 人が集まれば何かが生まれる――創造とは、そういうものとは違う気がする。

 複数の人間が集まってアイデアを出し合う場合であっても、そこでフワリと浮かんで来たものをタイミングよく掴み取り、言語や映像として定着させ、全方位的に課題を解決する、その最後のアイデアを「生み出す」のは、1人である。
 大勢で生み出しているように見えたとしても、ものを生み出すのは実は1人なのだ。――例えばどんなに周りが協力をしたとしても、1人の人間を生み出すのはやはり1人の人間であるように。

 グッドアイデアに至るまでのブレインストーミングや、その後のアイデアのブラッシュアップは「進める」作業であり、「生み出す」作業ではない。「進める」作業はみんなでやればよい。
 けれども何かを生み出そうと思ったら、自分で生み出すか、あるいは誰か他の一人に生み出してもらうしかない。「みんな」という集合体から生まれるわけではない。創造とは、生みの苦しみ、生みの醍醐味とは、その孤独にあるのかも知れない。

-----Zoom In Zoom Out-----

「プロフェッショナル 仕事の流儀」
フレンチシェフ・岸田周三

■「アイデア会議」
加藤 昌治
[ 2008/02/05 23:04 ] TB(0) | CM(0)

知的生産の仕事算 

 たとえばここに、「1人で取組んだら終了するまで100日かかる中程度に知的な生産作業」があると仮定する。
 それではこの作業に10人で取りかかったなら、果たして10日で完了するだろうか?
 多くの場合、まさか「仕事算」でもあるまいしそんなにうまく事が運ばない、ということは、誰でも経験しているはずだ。それが仮定どおり中程度か、もしくはそれ以上に知的な生産だった場合、「1人でやったほうがはやい」かつ「完成度が高い」ということもあるのが現実だ。
 人間の知的生産は、工場生産のように「時間×人数」では割り切れない。(その工場生産ですら、複雑かつ精密な機器や部品などの場合、ほとんどの工程を1人の人間が行なう「セル生産方式」が採られることがある。)
 携わる人間の数が多くなればなるほど、情報の共有や仕事の引き継ぎだけでかなりの時間が割かれてしまう。伝達ミスの防止、人それぞれの考え方や性格の差異まで考慮に入れた人員配置など、あらゆることを包括的に見据えながら計画を推進したとしても、増やした人数分だけ単位時間あたりの出力量も増やす、というのは並大抵の事ではない。
 情報技術の発達により、ひと昔前に比べると、1人の人間が行なうことのできる作業量は飛躍的に増大した。しかしなぜいつまでも我々は忙しいままなのか?ひょっとすると昔のほうがもう少しのんびりしていたのでは?果たして作業の完成度、生み出されるものごとひとつひとつが持つ質量は、向上しているのだろうか…?
 問題は、1人当たりの作業効率にあるのではなく、情報どうしの結びつき方、集合知のふるまい方、流れ方にある。
 いくら便利になったと言っても、PCやケータイが当たり前に社会に普及してからまだ10年、Googleが台頭してから5年。人間はまだまだこれらの「立派な道具」を、本当に使いこなせてはいないのだろう。
 人間のナレッジテクノロジー・ナレッジサイエンスの、本当の進化は、これからはじまるのだ。

-----Zoom In & Zoom Out-----

■「あなたの知的生産性を10倍上げる方法」 ( 池田信夫blog )

■「ナレッジサイエンス―知を再編する64のキーワード」
北陸先端科学技術大学院大学知識科学研究科、杉山 公造 他

■「フューチャリスト宣言」
ちくま新書
梅田 望夫、茂木 健一郎 他
[ 2008/02/05 22:29 ] TB(0) | CM(0)
プロフィール

studio:lamplight


■このブログについて:
 「科学と芸術、そして人間。」をテーマに、さまざまなものごとについて考えるブログです。特定の領域というよりも、領域と領域どうしの境界面のそのたたずまいに焦点を当て、張り過ぎず緩め過ぎず可能な限りバランスのとれた考察を深めることをめざしています。

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 悪意のあるものを除き、基本的にオープンです。異論反論、叱咤激励をどうぞお願いいたします。

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◆管理者プロフィール:
 1976年生まれ。東京都在住。自称、逍遙学派。歩きながら考えることで何かが見えてこないかと、今日も歩きながら考えている。このブログも文章のほとんどを、歩きながら携帯電話にて入力し、推敲を重ねている。

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