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聖火リレーの崩壊 

■聖火リレー中止は「絶対にない」 裏にはスポンサー事情も?(産経新聞)

 オリンピックの象徴である聖火。この火はプロメテウスがゼウスの元から盗み人間に伝えたことを記念しているという。太陽光を凹面鏡で集めて採られるこの火を、オリンピック発祥の地ギリシアから開催国まで運ぶ聖火リレーが今回、崩壊してしまった。
 聖火は伝統的に人間の足で運ばれるが、近年では船や飛行機が使われたり、電子パルスに変換し人工衛生を経由してレーザー光線で再点火された例もあったという。どのようにして火という「化学エネルギー状態」を遠くまで運ぶか。聖火リレーにも人間の苦心と工夫のちょっとした歴史が垣間見える。

 しかし今回の聖火リレーはこれまでと明らかに様子が異なる。ギリシアでの採火式にもジャーナリスト団体の乱入騒ぎがあったが、ロンドンやパリでは反対デモなどによる混乱を避けるため、何度かその火が消されてしまった。台湾を含むリレー通過ルートの変更は既になされたばかりだが、更なるルート変更を含め、おそらく今後もこの混乱は続くだろう。
 聖火をリレーの途中で消したり点けたりできるのならば、あるいは完全に消さないまでも人間の都合で火力をごく弱くし、足で運べるところをバスで運んでしまうのなら、これはもう「チャッカマン」と同じである。類似品でよければ100円ショップにもたくさん売られている。

 どんな政治問題があろうと、それを差し置いてオリンピックが開催されるのは、それが「平和の祭典」であるからではもはやない。国家が、マスコミが、テレビを作るメーカーが、最も適確に金を集めることができるからである。だから彼らは必死になって、オリンピックを神聖化し、庶民が直接手の触れられない場所へ遠ざける。聖火ランナーを幾重にも取り巻いた警察官の群れが、そのことを証明してしまっている。
 
 北京五輪の成否は明らかに今年の世界経済に大きな影響を与えるだろう。だから大多数の国は、今回の騒ぎに手も足も出せないでいる。市民革命の国であり、また近代オリンピックの父クーベルタンの国フランスが呈する苦言は、ごく小数の意見に過ぎない。 神々の元からプロメテウスが奪った火の象徴である聖火は、もはやその神聖性を失ってしまった。そして、逆に人間の元から何か大切なものが奪われたことを、象徴しているのかも知れない。

■パバロッティ氏、トリノ五輪の熱唱は“口パク”(読売新聞)

■善光寺辞退で「衝撃」 長野聖火リレースタート地点変更

(2008.4.18 記事追加)

-----Zoom In & Zoom Out-----

「ロウソクの科学」
角川文庫
三石 巌、ファラデー 他

「ギリシア神話を知っていますか」
新潮文庫
阿刀田 高

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[ 2008/04/09 18:52 ] TB(2) | CM(0)

お役所仕事の理想と現実 

 「規則ですから」「決まった書式の書類を揃えて提出下さい」「結果が出るまで二週間かかります」…

 たくさんの案件を、基準や規則に従って平等に処理するためには、いわゆる「お役所」的な対応が必要なのだろうか。
 もちろんそれぞれの案件についてフレキシブルに対応できればそれが一番良いのだが、そういったフレキシブルな対応を許してしまうと、妥当だとして決められた基準や規則との間、その理想と現実の間で、しばしば現場が板挟みにあってしまうのだろう。
 数年前、ある原子力施設において、プルトニウムの移し替え作業をバケツを使って行なっていた作業員が、臨界状態を引き起こして放射線被爆により死亡するという事故があった。本来この作業には、安全な作業プロトコルがあった。このプロトコルがどれほど煩雑なものだったのかは分からないが、或る意見を読んで考えさせられたことがある。その意見とは「現場にはおそらく〈バケツでやった方が簡単で効率的だ〉という気持ちがあったのだろう。この現場の感覚を無視して、単にこれまで通りのプロトコルを徹底するだけで本当にいいのだろうか。基準や規則が現場の感覚とかけ離れている場合が他にも多々ありはしないか。」というものだ。
 昨年世間を騒がせた食品表示の偽装問題でも、賞味期限の貼り替えに至ってしまう事情として〈もったいない、まだまだ食べられるのに〉という至極「日常的」な感覚があったのかも知れない。
 だからと言って基準や規則が勝手に破られていいわけはないのだが、日常の自然な感覚が「やってはいけないこと」をさせてしまったのなら、もう一度きちんとシステムや手続きを見直すことも必要だと思う。
 「お役所仕事」とは、往々にして、執行する側からの押し付けのプロトコルが現場とあまりにも食い違っている場合にそう呼ばれる。
 筆者は毎年、年末調整の書類を書くだけでも嫌な「手続き嫌い」の一人だが(茂木健一郎氏も確定申告についてそんなようなことを書いていた)、例えば国会議員が1円から領収書を添付する話も、いざ実行するとなると相当面倒な作業だろう。
 書類を揃えたり、領収書を添付したり、証明書を発行したり、印紙を貼り付けたり、切手を同封したり…。ここまでやらないと、本当にものごとは進まないのだろうか。こういう瑣末なことに、人間はあまりにも時間と労力とを食われ過ぎてはいないだろうか?

-----Zoom In & Zoom Out-----

「100の悩みに100のデザイン 自分を変える「解決法」」
光文社新書
雲南 治嘉

「ターミナル」
トム・ハンクス、キャサリン・ゼタ=ジョーンズ 他
[ 2008/04/08 00:32 ] TB(0) | CM(0)

可能的未来を紡ぐ 

「私は神がサイコロ遊びをするとは到底思えないのです。」
     ――アルベルト・アインシュタイン

 この宇宙に我々人間のような複雑なものが存在するためには、様々な物理的条件が「ちょうどよい」範囲に収まっていることが重要なのだという。
 特に以下に挙げる(1)から(6)の6つの値は、それが大き過ぎても小さ過ぎても宇宙が今の状態を保つことが難しく、あたかも神の手によって「ちょうどよく」調節されているように見えるために、「6つの魔法数」と呼ばれる。
 
 【6つの魔法数】
 (1)核力と電磁力の強さの比
 (2)電磁力と重力の強さの比
 (3)宇宙の密度
 (4)宇宙定数
 (5)宇宙マイクロ背景放射
 (6)空間の次元
 
 この「ちょうどよい」範囲のことを欧米では「ゴルディロックス・ゾーン」と呼ぶ。ゴルディロックス(Goldilocks)とは、或る童話に登場する金髪の少女の名前らしい。
 
 こういう話を聞くと、真っ先に思い浮かぶのが「ドレイク方程式」である。この式は、この銀河系に高度な文明を持つ知的生命体が棲む星をいくつ見つけることができるかを算出するためのものだ。
 
  【ドレイク方程式】
    N = R* × fp × ne × fl × fi × fc × L
  ここで、
  N  :我々の銀河系に存在する通信可能な地球外文明の数
  R* :我々の銀河系で恒星が形成される速さ
  fp  :惑星系を有する恒星の割合
  ne :1つの恒星系で生命の存在が可能となる範囲にある惑星の平均数
  fl  :上記の惑星で生命が実際に発生する割合
  fi  :発生した生命が知的生命体にまで進化する割合
  fc  :その知的生命体が星間通信を行う割合
  L  :星間通信を行うような文明の推定存続期間

 これら「6つの魔法数」や「ドレイク方程式」から少なくとも言えることは、我々人間が今ここに存在できる確率は想像以上に低い、ということだ。
 これまでの宇宙の歴史で何かが少しでも異なっていたら、「今」の状況は全く別のものになっていただろう。同じことは人間の短い歴史にも当てはまる。歴史に「もしも」が禁物なのは、その「もしも」を考えてしまうと歴史そのものがあまりにも変わってしまい過ぎるからだ。宇宙の歴史も人間の歴史も、ごく小さなパラメーターの変化が結果に多大な影響を与える、れっきとした複雑系に他ならない。

 我々の存在は、様々な時空間的関係のごく微妙なバランスの上に成り立っている。しかしそれだからこそ、この瞬間が、どのような未来にも繋がり得る。
 無限に存在する可能的未来から、我々の一挙手一投足によって、この瞬間にも、たった1通りの「今」が紡ぎ出されている。あたかも、糸車によって綿花の塊から一筋の糸が紡ぎ出されるように。
 きっとペシミストは、紡ぎ出された後の一筋の糸を見て、定められた運命の不自由さを嘆くのかも知れない。そしてそれとは逆にオプティミストは、紡ぎ出される前の綿花の塊を見て、そこに無限に広がる可能的未来のその自由さを喜ぶのだろう。

-----Zoom In & Zoom Out-----

■「もしも月が無かったら?」「宇宙人は本当にいるのか?」
情熱大陸 小久保英一郎(理論天文学者)

■自宅に居ながら、地球外知的生命体の探査(SETI)を行なう科学実験に参加
SETI@home

■「もしももしもあなたが猫だったら?
   ―「思考実験」が判断力をみがく」
(中公新書)
竹内 薫

■「地球生命圏―ガイアの科学」
星川 淳

■「考える人」 2008年 02月号
連載「偶有性の自然誌」
第一回 『「わからない」からはじまる』 茂木健一郎
(pp.138-145)
[ 2008/04/05 00:27 ] TB(0) | CM(0)

自分に嘘をつかない 

 能面は能の演技者を「隠すため」につけられるものではない。たとえ面をつけていたとしても沸き上がり染み出してくる演技者の本質を、「表現するため」の面である。
 人間はそれぞれの持ち場で役割を果たすために、場面に応じて異なる面をつける必要もあるだろう。しかしなるべくその面が、自分を表現するためのものであることを願う。自分を隠すために面をつけることは、なるべく控えたい。自分を隠すための面をずっと長い間つけ続けていると…
 つけた仮面が外れなくなりやがて仮面に全てを支配されてしまう男の話は、決して古代の伝説や映画の中だけのものではない。

----- Zoom In & Zoom Out -----

■「偶像再興・面とペルソナ」
和辻哲郎感想集
和辻哲郎

■「はなのすきなうし」
(岩波の子どもの本)
マンロー・リーフ、ロバート・ローソン 他

■「死に至る病」
(岩波文庫)
キェルケゴール

■「マスク」
ジム・キャリー、キャメロン・ディアス 他
[ 2008/04/03 19:04 ] TB(0) | CM(0)
プロフィール

studio:lamplight


■このブログについて:
 「科学と芸術、そして人間。」をテーマに、さまざまなものごとについて考えるブログです。特定の領域というよりも、領域と領域どうしの境界面のそのたたずまいに焦点を当て、張り過ぎず緩め過ぎず可能な限りバランスのとれた考察を深めることをめざしています。

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 悪意のあるものを除き、基本的にオープンです。異論反論、叱咤激励をどうぞお願いいたします。

 ※このブログは、アフィリエイト・プログラムには参加しておりません。

◆管理者プロフィール:
 1976年生まれ。東京都在住。自称、逍遙学派。歩きながら考えることで何かが見えてこないかと、今日も歩きながら考えている。このブログも文章のほとんどを、歩きながら携帯電話にて入力し、推敲を重ねている。

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