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ミッシェル・フーコー「監獄の誕生 ー監視と処罰ー」 

 われわれのまわりには常になんらかの方法で「区画」を形成する網が張り巡らされている。住所・氏名・生年月日・性別・血液型・職業・会社名・部署名…。そして、ものごとを認識する時も、同じようになんらかのカテゴライズが施される。
 われわれ自身も世界も、透明な「グリッド(方眼)」にまるで絡めとられているかのようだ。つねに名前がつけられ、番号や記号がつけられ、数値化され、差異をもとにした序列がつけられ管理される。
 万が一「名前が無いもの」「カテゴライズできないこと」などが見つかってしまったなら、われわれは不安でたまらなくなり、すぐにそれに名前をつけカテゴライズする努力をはじめてしまう。
 エクセルシート(表、タブロー)でまとめられないもの、データベース化できないものなど、我々は管理できないどころか、認識すらできないのである。
 もちろん「時間」についても、現代人のそれは細分化され序列化されスケジューリングされる。そしてわれわれはその時間を必死になって追いかける。
 
 われわれは生まれた時から、そのように世界を認識し、また管理され、そのように規律訓練が施されてきた。フーコーの「監獄の誕生」はそのわれわれの「当たり前」が歴史のなかでいかにして構築されてきたのかを暴き出す。そして「当たり前」が「当たり前」としてわれわれの精神に作用し、みかけの上では非常にソフトな手触りで、しかし確実にわれわれの身体を拘束してゆく、その過程を詳らかにする。
 
 さらに管理社会は、監視の網の目を張り巡らすことも怠らない。
 監視カメラが当たり前のようにどこにでも設置され、一人に一台カメラ付ケータイを持ち歩き、写真も動画も個人が自由に発信できる。これは、「監視」の象徴として本書に登場する一望監視システム(パノプティコン)がさらに成熟した状況を示しているようにもみえる。

 われわれはこの幾重にも張られた束縛から逃れることは出来ないのか。

 確かにインターネットの発達は、グリッドにより分断された空間や時間にとらわれず、人どうし、情報どうしがあたかも「有機的に繋がる」ことが可能になったように感じる。けれども、フーコーによれば何世紀も前から緻密に構築されてきた網目を、ひょいとそんなに簡単に超えられるものだろうか。ひょっとすると、「リアル」な網目に加え「ネット」の世界に新たなより複雑で捉えがたく逃れにくいグリッドがそこに構築されただけなのかもしれない。
 
 われわれを取り巻く見えない網の目から開放されるやり方、たたずまいとは一体どんなものがあるのだろうか。

 自分がどんどん変化してゆくのをおそれない、即興的につながりを求めてゆく…そういった積極的かつ自由なやり方にヒントがあるかも知れない。

■「監獄の誕生 ー監視と処罰ー」ミシェル・フーコー 著、田村 俶 訳(新潮社)
■「フーコー入門」中山 元 著(ちくま新書)
■「寝ながら学べる構造主義」内田 樹 著
■「異才・天才が飛び出すソニーの不思議な研究所」所 眞理雄・由利 伸子 著(日経BP社)
■「脳が変わる生き方」《第4章:自分を質入れしない》茂木健一郎 著(PHP研究所)
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[ 2009/11/06 23:09 ] TB(0) | CM(0)
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■このブログについて:
 「科学と芸術、そして人間。」をテーマに、さまざまなものごとについて考えるブログです。特定の領域というよりも、領域と領域どうしの境界面のそのたたずまいに焦点を当て、張り過ぎず緩め過ぎず可能な限りバランスのとれた考察を深めることをめざしています。

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◆管理者プロフィール:
 1976年生まれ。東京都在住。自称、逍遙学派。歩きながら考えることで何かが見えてこないかと、今日も歩きながら考えている。このブログも文章のほとんどを、歩きながら携帯電話にて入力し、推敲を重ねている。

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