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記憶の頑強さ/曖昧さ 

例えばある人の「自分はニューヨークに行ったことがある」という記憶は頑強だ。その人がどんなに強くロンドンに行きたいと思い、ロンドンに行ったらあれやこれやして楽しもうと想像したとしても、実際にロンドンに行ったことがなければ、その人は「ロンドンに行ったことがある」とは普通は思わないだろう。その人がニューヨーク滞在をどんなに楽しめなかったとしても、実際に行ったことがあるならば、「ニューヨークに行ったことがある」という記憶は頑強だ。
その場所に行った時に見たことや聞いたこと、触ったことなど身体感覚との連動(身体の記憶)や、そこへ実際にたどり着くまでのエピソード記憶が、その人にとってのファクト性を強めフラグを立てて、「行ったことがある」ことと「行ったことがない」ことを区別していることは容易に想像がつく。
逆に、そのような身体の記憶を伴わない形而上のことがらを記憶することは容易ではない。実際に見たこともない生き物のからだのつくりや、形すら伴わない法律や思想のようなものは、何度も繰り返して学習し記憶を強化する必要がある。教科書の内容をノートに書き写したり、声に出して読んだり、わざわざ直接関係のない手足の動きを連動させる記憶法のようなものもある。小学生が生き物の観察や社会見学をしたり、大学生がレポートを書いたり他人と議論したりすることも、学ぶということについて(人や内容により程度の差こそあれ)一定以上の効果があるのだろう。
しかし、正しい方法をとらない場合、間違った事実を事実として記憶してしまうことはよくあるし、自分の想像や夢で見たことを、内容によっては事実としてしまう。あるいは事実が事実でないか区別がつかず、曖昧なものになってしまうことも無いこともない。「デジャヴ」は多くの人にとって経験済みの現象だろう。
人間の記憶には頑強さと曖昧さが同居している。だからこそ近代以降の自然科学や社会科学は、実証や経験に最大の重きをおいて「事実」と呼ばれるものを蓄積してきた。
人間はその人の記憶(もちろんここでは身体の記憶と一体となった記憶を指す)によって、自分は自分であり他の誰かと入れ替わっていないことを確認できる。
「自分」とは、頑強なものと曖昧なものが合わさった、カチカチでフワフワなものから成り立っている。

-----Zoom In Zoom Out-----

■現代思想 2006年10月号特集=脳科学の未来
青土社
[ 2007/04/08 12:32 ] TB(0) | CM(0)
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 「科学と芸術、そして人間。」をテーマに、さまざまなものごとについて考えるブログです。特定の領域というよりも、領域と領域どうしの境界面のそのたたずまいに焦点を当て、張り過ぎず緩め過ぎず可能な限りバランスのとれた考察を深めることをめざしています。

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◆管理者プロフィール:
 1976年生まれ。東京都在住。自称、逍遙学派。歩きながら考えることで何かが見えてこないかと、今日も歩きながら考えている。このブログも文章のほとんどを、歩きながら携帯電話にて入力し、推敲を重ねている。

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