「日本郵政グループ 資産規模300兆円の金融機関が発足」「一般会計85兆7000億円 20年度概算要求」「短期金融市場に即日1兆円を供給 日銀公開市場操作」「年収200万円以下の給与所得者が増加」「全国平均で1時間あたり673円 最低賃金額」「領収書1円以上を原則公開に 政治資金規制法改正案」…毎日毎日ニュースでは様々な規模の数字が踊る。1円から数百兆円までのこの広がりを、我々は的確にとらえる事なく、いい加減な感覚で何となく斜め読みしてはいないだろうか。
例えば「1万円」と「1億円」には1万倍の違いがある。我々は何となくその違いを想像することはできる。「1万円」とは福沢諭吉が描かれた一枚の紙片であり、その手触りとともにその金額とそれが持つ可能性を思い浮かべることができるだろう。「1億円」はというと、一万円札が1万枚。例えばそれを豪邸や高級車の集まりとして(実感できることは稀かも知れないが)、何とか想像することはできるだろう。
しかし「1万円」と「1兆円」の1億倍の違いとなると、それを何らかのイメージや身体感覚としてとらえることは難しくなる。1万円札1億枚の集まりといわれても、それを想像することは難しい。巨大企業の売り上げや一つの国の予算に匹敵する額ではあるが、それを何らかの具体的イメージに結びつけるのは容易ではない。
多くの宝くじは上位の当選金額が数千万円から数億円で設定されている。賞金金額がそれ以上、例えば数十億円から数百億円に設定できたとしても、その額は人々の想像の限界を超えてしまい、購入への動機づけの強さはそれほど大きくならないかも知れない。
人間には、正しくその大きさを把握できる数字の範囲に限界があるようだ。
だいぶ古い話ではあるが、イギリスの学者パーキンソンは、一定以上の高額について、人は程度の差こそあれ感覚が麻痺してしまうことを、皮肉を交えながら示した。それは「議題の一項目の審議に要する時間は、その項目についての支出の額に『反』比例する」という法則である。
イギリスのある年の財務委員会の審議で、1000万ポンドの原子炉建造計画の予算審議にかかった時間が2分半であったのに対し、事務職員の自転車置き場を350ポンドで作る案には、アルミ屋根をトタンにすれば300ポンドでできるという意見が出て45分間の議論。ある会合の茶菓子代月35シリングの予算請求に対しては、審議が1時間15分続いたというのである。大国の財務という、それなりに大規模な金額が扱われる場においてさえ、大きすぎる金額には感覚が麻痺してしまい、かえって小さな(そして各人が実感を持ってとらえられる)金額のほうに人は躍起になるのだ。
人間の歴史を学んでいない人にとっては、百年前も千年前も同程度の「昔」に違いない。地球の歴史を学んでいない人にとっては、十万年前も十億年前も同程度の「大昔」に違いない。
原発から漏れ出した放射線量は多いのか少ないのか。基準値の数百倍のダイオキシン濃度は多いのか少ないのか。我々の生活を支える半導体製造にはミクロン単位の制御が必要であるし、今あなたの周りの空気には数ミクロン程度、あるいはより小さな細菌やウイルスが(おそらくたくさん)飛び回っている。
これらの量やサイズの持つ意味をその人なりにきちんと捉えることができた時、ものごとへの「無関心」が「(大きな)関心」に変わるのだと思う。
景気は回復していると言う声が出る一方で、最低の生活すら保証されず「生きさせろ!」と叫ぶ声も確実に増えている。格差とは、人間のサイズ感覚の消失がもたらす無関心から生まれているような気がする。
様々な規模の数字をもとに、様々なレベルの議論が交わされる。数%という統計学的な量の中に何万人分もの生活がある。そのサイズを安易に読み飛ばすことなく、その大きさあるいは小ささを、丁寧に捉えたいと思う。
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↓世紀の傑作「Powers of Ten」収録